深い悲しみ。そして自立。〜人生の転機〜

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私の人生の転換期のお話をさせていただきます。

私は、小学校の頃から活発で、落ち着きがなく、自己中心的でした。

自分の興味の持てないものには全く集中力が続かなく、逆に興味があることには没頭するタイプでした。

私の父親は、幼稚園のときに千葉でペンションを自営業で立ち上げました。幼少の頃より商売人の家で育ったため、土日は忙しくよくみんなが働いているときに休んで、休みのときに働くのがサービス業だと教えられてきました。

父親の父親、私から見て祖父は若くして体を壊していたので、私の父親はよく両親の面倒を見ていました。

父親には兄がいましたが、その兄はロサンゼルスに留学し、博士号を取り、東京でバリバリ働いていたため祖母と祖父は父親がずっと見ていました。

千葉でペンションをやっているときも、近所に祖父と祖母は住んでいて、私はペンションが忙しいときにはよく祖母の家に泊まっていました。

私には3歳したの妹がいるのですが、父親は私にはものすごくスパルタで、妹には一度も怒ったことはありませんでした。

小さい頃はよく殴られ、今でいうDVに近いくらいに厳しく育てられました。

そんなに厳しい父親なのに。私は全くいうことを聞かない息子でした。

そして、父はかなりの酒乱でした。

酒を飲むと、私を呼びつけて説教するのが酒のつまみでした。

何を説教されていたのかというと、『社会は厳しい!そんなに甘ったれてたらお前なんかは生きていけないぞ!』といつも怒られていました。

勉強をしろとはあまり言われなかったのですが、社会は厳しいから、ちゃんと安定した仕事につけと言われて育ちました。

そして、18歳になり、進路を決めるときに、私はやりたいことがありませんでした。

千葉なので、友達は京葉工業地帯の大手の工場に次々に就職を決めていました。

私の父も大手の工場での就職を私に進めてきたのですが、私は工場の就職には魅力を感じられなかったのです。

三交代で、定年まで決まったレールの人生を歩むことは私のワクワクする人生ではありませんでした。

そのときに出した答えは、東京に出たいという答えでした。

とにかく東京に出たかったので、大学に行くことにしました。

経営情報学を選びました。

これで東京に出る口実ができたので、胸を張って家を出ました。

そして、東京での学校生活が始まりました。

その頃父親は、経営していたペンションが厳しくなったため、ホテルに就職しマネージャーをやっていました。

自営業から会社員になった父親はストレスもすごく、よりお酒を飲むようになりました。

私は、学校に行きながら生活費を稼ぐためにアルバイトを始めました。

ガソリンスタンドのアルバイトです。

練馬の環七のガソリンスタンドでアルバイトを始めたのです。バイトをはじめて私は稼ぐことが楽しくなってしまいました。

バイトの時間はどんどん長くなり、しまいには学校には行かずにアルバイトを1日12時間していました。

18歳のバイトで月に25万稼いでいました。

次第に学校にも行く気が失せ、アルバイト漬けの日々を送りました。

そして、1年が経とうとしたときに、私は出席日数が足りなく留年を言い渡されました。

私は、学校をやめ就職することにしました。

急に仕事を探すことになり、何をしようか考えました。

ガソリンスタンドで、就職しないかと誘われたのですが、工場勤めがいやで東京に出てきてガソリンスタンドで就職はないと思い仕事を探すことにしました。

当時、やりたいことがありませんでした。

なので、自分がどうしていきたいかで仕事を探すことにしました。

当時ガソリンスタンドは外の仕事のために、夏は暑く、冬はものすごく寒い中仕事をしていたので、就職は室内がいいなとまず条件を出しました。

そして、あっという間に1年が過ぎてしまって、給料はもらえたのですが、自分には何も残っていなかったので、手に職があったほうがいいと思いました。

大学も中退なので、学歴もつかないので、せめて手に職があればいいと考えました。

あと私は、会社の社長になりたかったので、自分で独立できる仕事を探しました。

そして、最終的に候補に上がったのは、コックか美容師でした。

それを選択するときに考えました。

私は、女性が多いほうがいいなと考え美容師になることに決めました。

その日、本屋に行き求人誌を見つけ、寮付きの美容室を探したところ2件候補が出てきました。

そのうちの1件に電話したところ、見習いでは取ってくれないため、もう1件に電話をかけました。

そうしたら、通信で学校に入りながら働けるし寮にも入れるということなので、次の日に面接に行くことになりました。

翌日面接に行くと、30代の男性と喫茶店で面接をしました。

これまでの経緯をはなし、面接官が私に『君、やる気はあるの?』と聞いてきたので、私は『見てわからないですか?』と答えました。

今思い起こすと、クソ生意気で笑えるほどでした。

そんな私でも気に入ってもらえ、じゃあ、いつから働く?と言われたので、三日後でお願いします。といい次の日に引っ越しました。

こうして、私の美容師人生は始まりました。

私が就職を決めて働き始めた頃、父親は千葉のホテルから長野に転勤を命じられ、断るなら会社をやめろと突きつけられていました。

父親は長野に行くことに決め、単身で長野のホテルで働くことになりました。

祖母と祖父と私の母と妹は、そのまま千葉で暮らし続けることにしました。

私も、日々美容師の見習いの仕事に奮闘していました。

かなり生意気で尖っていたため、周りの先輩には嫌われていました。

私も、先輩に対してもライバルだと勝手に敵意むき出しで練習していたので、社会の中でうまく生きて行けない不器用な19歳でした。

しかし、見習いで美容師を始めたので、右も左もわからずにただひたすら一生懸命に掃除と床はきとお弁当の買い出しを頑張っていました。

先輩からも嫌われていたのですが、必死に頑張っていると一人私に感心してくれた人がいました。

その店でスタイリストは100人くらいいた大きなお店だったのですが、その中でも売り上げと指名客が常にナンバー1だった美容師です。

私は、そのナンバー1に気に入ってもらったので、専属のアシスタントとしてその人につくことになりました。

そうこうしているうちに3ヶ月があっという間に過ぎて、ある日思い出しました。

私が学校をやめたことをまだ親にいうのを忘れていました。

思い出したので、母親に『今学校をやめて美容室で働いている』と伝えると、母親はびっくりして混乱していました。

その三日後に父親が、長野から神奈川までやってきました。

昼間に私が働いている美容室にきて私をみると、軽く笑っていました。

仕事が終わり、その日は父親と夜居酒屋に行きました。

私は怒られると思ったのですが、もう働いているので動揺はしませんでした。

父親が私に言った言葉は、『まさかお前が美容師になるとは思わなかった。俺も美容師なんて思いつかなかった』と私にいいました。

そして、居酒屋でお酒を飲み、私の寮に帰る頃、父親はそこに泊まるのですが、やはり酒癖が悪く、私にブチ切れてきました。

『てめー、学校にいくらかかってると思ってるんだよ!金をドブに捨てやがって!』とえりぐらを掴まれました。

私も頭に血が上り、父親とつかみ合いになり、私が父を投げ飛ばしました。

私も高校まで野球部で鍛えていたので、その時に初めて父親に腕力で勝ちました。

父親は、倒れてソファーに頭を打ち、いてー!とうなだれていました。

その時の光景は今でも目に焼き付いています。

私は、なんてことをしてしまったのかと悲しくなりました。

それから間も無く父親は会社をリストラにあい、長野から千葉に帰ることになりました。

千葉に帰り、母親とこれからどうするか相談してこれから何をやろうかと仕事を探していたようです。

 

ある日、早朝6時くらいに母親から私に電話がありました。

『お父さんが倒れたから帰ってきて』

私は、何が起きたのか全く理解できずにとにかくその日、神奈川から千葉に帰りました。

帰っている電車の中で、涙が止まりませんでした。

自分が勝手に学校をやめ、父親を投げ飛ばしてしまったことを思い出していました。

千葉の病院に運ばれていて、私がついた頃も手術中でした。

私は、病院で今までないくらいに泣きました。

このままお父さんは死んでしまうのか?

父親は脳溢血で、朝トイレで倒れていたそうです。母親はそれを見つけ慌てて救急車を呼びました。

手術も12時間を経過する頃にようやく終わりました。

麻酔も切れてきたので、ようやく面会できました。

私は父親の手を握り、泣いていました。

父親ももうろうとした意識の中、私の手をピクッと握りしめるまでいかない力で反応を返してくれました。

私は、あの時の父の愛情を忘れません。

人生であんなにないたのは後にも先にもないくらいに泣きました。

私が19歳の夏の頃でした。

父親が倒れたために、千葉の家は売却することになりました。

母親は千葉の別の場所で妹と半身不随の父親を連れて再びペンションを開業することになりました。

祖母と祖父は東京で、父の兄と暮らすことになりました。

私は、まだ美容師の見習いのため家族がバラバラになる時も何も手助けをすることができませんでした。

自分が経済力がないために、祖母は行きたくない東京で暮らさなければいけないと思うと悔しくてたまりませんでした。

それから、ひたすら頑張り私は25歳で横浜で美容室を開業することになりました。

あの時、父親が倒れて自分を見失い、家族も守れずに挫折したことは私の人生にとって大きな転機になりました。

父は、自分の生きざまで私に身をもって教育をしてくれました。

社会は厳しい。生きていくのはなかなか思うようにならない。人生は苦しい。我慢して働く。

これらのことはとても脳裏に焼き付いています。

が、私がスピリチュアルを学び、宇宙とチューニングをした時に今までの呪縛がすべて消えました。

自分の人生の見えない呪縛というのはすべて自分の脳の中で創っているものだと気づいたのです。

私は、父親の強烈な生きざまを見て、全く違う価値観を手に入れました。

人生は、思い描いたようになる、魔法のキャンバスだ。この世界はまるで魔法の世界。人生は楽しく幸せである。努力なんて必要ない。好きなことをしている時は時間を忘れるくらいに集中してしまう。

このような人生観は父親とは全く違う世界です。

この宇宙は表裏一体です。

地獄に生きるのも、天国に生きるのもすべては自分次第だと私は身をもって体験しました。

この世界で、大半はお金のために生きてしまいます。

しかし、本当の幸せは精神的なスピリチュアルな幸せなのです。

決して物質に満たされることでは幸せにはなれません。

愛に満ちた世界こそ幸せの絶対条件です。

たとえ給料が少なくとも。田舎で家賃も低く、野菜を育て、質素に暮らせばお金なんてそんなにいりません。

綺麗な海や、壮大な山を愛する人と眺めていればそれだけで幸せな気分になれます。

宇宙とシンクロすると、人間の幻想の欲求ではなく、自然の中で生きていく幸福を求めるようになります。

祖母もなくなる時に私にいいました。

自分の息子が倒れ、半身不随になり相当悲し身の中亡くなったと思います。

しかし、私にはこう言いました。

『あなたは幸せになりなよ』

その時は私は幸せとはなんなのかわからなかったのですが、数年後、矢追さんに出会い宇宙を知り、本来の幸せを知ることができました。

この幸せの状態をあなたにも味わっていただきたい。みんな幸せに人生を楽しんで生きて欲しいと願っています。

私は、この幸せのバタフライエフェクトを起こしていきたいと思っています。

私の幸せが、たった一人でも波及することにより、それは水面に波紋が広がるように宇宙に広がっていきます。

その周波数は、あっという間に宇宙全体に広がっていくでしょう。

あなたにお会いできる日を楽しみにしています。

 

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猿田毘古の骨伝導ヒーリング完全解説

こうしてイエス・キリストは猿田彦になった フィクション小説


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